厳冬旅行第2日目。
ウクライナで最も有名なあの都市に行きます。
5:09、起床。
本当はここまで早く起きなくても良かったのですが、
昨日は21時前に寝落ちしたので
目が覚めてしまいました。
朝食を摂り、市電1系統で中央駅に向かいます。
誰も口を開かず驚くほど静かです。
旧ソ連感がありますね。
Київ(キエフ)朝の通勤風景。
通勤列車という概念はあるようですね。
ウクライナはかなり鉄道が発達しています。
人で賑わう中央駅前。
Київは朝の方が活気があります。
話し声は殆ど聞こえてきませんが。
そして、今日も軍人が多いな…
中央駅から少し離れたところに車が停まっていました。
仰々しい放射能マークの描かれたこの車が
今日参加するツアーの車。
向かうのはベラルーシとの国境に程近い
Чорнобиль(チョルノーブィリ)、
ロシア語でЧернобыль、
原発事故でゴーストタウンと化した街
チェルノブイリです。
何人たりとも立ち入りを許されない
閉鎖都市と思われがちですが、
実は現在では申請さえすれば誰でも入る事が出来ます。
原発事故のドキュメンタリー映画を見ながら
Київから走る事1時間半、
第一の検問所に到着しました。
Дитятки(ドィチャトキ)検問所です。
ここから原発30km圏内に入ります。
検問所で飼っていると思われる犬が可愛い。
この検問所の目の前には土産物屋もあります。
放射能マークのオンパレードです。
自ら全力でネタにしていく姿勢は結構好き。
30km圏内に入るとまずは
Залісся(ザリッシャ)という廃集落を散策します。
ここは原発事故によって放棄された集落。
雪が残っているのでКиївより一段寒いです。
放棄された公民館。
床板は所々抜け落ち、朽ち果てるままになっています。
「本当はいけないんだけど特別だよ」
とか言いつつ中にも入れてくれました。
規則の厳しさに対するこの運用の緩さは流石旧ソ連。
打ち棄てられたЛада(ラダ)社製の車。
住民はバスでの避難を強いられたので
車さえ持っていく事が出来ませんでした。
民家には新聞や本、楽譜が散乱しています。
床板が全て無くなっているけど、
誰かに盗まれたんだろうか…
Лелів(レリフ)検問所を抜けて
原発10km圏内に入ります。
現在でもこの中で夜を過ごす事は認められていません。
原発へ向かう前にちょっと寄り道。
可愛らしいクマの絵が遇らわれた廃バス停
…にカモフラージュした建物。
ソ連時代の地図ではこの場所には
「廃止された子供向けキャンプ場」
がある事になっていました。
つまり、これはその「キャンプ場」の最寄りバス停。
その筈なのに、道はバス停より遥か先まで延びています。
そう、キャンプ場というのは世の目を欺く仮の姿で、
ここにあったのは極秘の軍事基地なのです。
ソ連崩壊後も長らく立入禁止となっていて、
一般公開されたのは5年前だとか。
この秘密基地の中でも特に極秘とされたのが
この先にあるとある物体です。
超巨大なこの建造物。
ここまで来ると現代芸術の域ですが、
これが一体何か分かるでしょうか?
正解はミサイル発射を探知するレーダーです。
OTHレーダーと呼ばれるタイプで、
上空で反射するような波長の電波を使う事で
地平線を遥かに超える範囲の監視を可能にしています。
勿論、レーダーの存在は極秘だった訳ですが、
このあまりの巨大さ故に目隠しの森も役に立たず、
地元の人には良く知られた存在だったそうです。
放射能マークの標識。
このレーダー自体が汚染されているのではなく、
周囲の森林の除染が進んでいない事を警告しています。
欧米人観光客達が嬉々として記念撮影していました。
撮影を終えたら秘密基地を後にします。
第二次世界大戦の兵士を讃える銅像。
こんな地方の小さな集落にまで建てる辺りは流石ソ連。
しかし、ツアーバスが停車したのはこの銅像を見せる為ではなく…
このホットスポットを見せる為です。
日本でも話題になった言葉ですが、
風や水の流れによって放射性物質が溜まり、
周囲よりも放射線量が高まった場所の事を言います。
そんな場所にほいほい連れてきて良いのかと思いましたが、
冬季は放射性物質が雪に埋もれていて
飛散する危険性が少ないのだそうです。
夏も普通にツアーが催行されていますが。
打ち棄てられた人形。
ギョッとしました。
人形が捨てられていた場所にあるのは元・幼稚園。
保護者への連絡掲示板やら
お遊戯会の楽譜やらが散乱しています。
荒れ果てた部屋に残されたクリスマスツリー。
楽しいクリスマスが原発事故で一転、
ツリーを片付ける暇も無く…
あれ?でも事故が起きたのは4月末じゃなかったっけ?
単にズボラだっただけじゃないか。
嘗ては子供向けのファンシーな装飾だったものが
経年劣化でボロボロになり、
元のファンシーさと相俟って狂気を感じさせます。
勿論、皆は大写真撮影大会です。
僕もちょっと撮ってみましたが…
自分で撮った写真ながら、
この人形の写真は呪われそうだな…
次はいよいよ本丸です。
これが世界中を混乱の渦に巻き込み、
恐怖のどん底に陥れたЧернобыльская АЭС、
チェルノブイリ原子力発電所です。
一昨年、放射性物質の拡散を抑える為に
石棺と呼ばれるコンクリート製のシェルターで覆われてしまいましたが、
裏手に見える蒲鉾形の構造物がそれです。
ここまで近付けるとは思ってもみませんでした。
廃炉作業は今もなお進行中で、
労働者を運ぶバスが行き交っていました。
元は燃料輸送用だったと思われる線路も敷かれています。
放射能汚染によって周辺の町が放棄された後、
原発作業者達は50km離れた場所に新たに造られた計画都市
Славутич(スラヴチッチ)に住むようになった為、
そこまで線路が敷かれて列車通勤させられているそうです。
色々歩き回ってお腹が空いたので昼食を食べます。
勿論、居住禁止地区のЧорнобильに
一般人向けのレストランなどあろう筈もないので、
原発作業者向けの食堂にお邪魔させてもらいます。
食事の場に放射性物質が舞っていると
内部被曝の危険性が高まるので、
食堂に入る前には放射能汚染されていないか
検査を受けねばなりません。
検査と言っても、機器に手をかざして
ほんの数秒待つだけですが。
駅のコンコース並みにだだっ広い食堂と、
作り置き感のあるちょっと味気ない料理。
それでも、食べさせてもらえるだけ感謝です。
腹拵えを済ませたらЧорнобильを発ちます。
通称「赤い森」と呼ばれる地帯。
この辺りは樹木による濃縮作用もあって放射線量が高く、
僕等を乗せたミニバスは足早に通り過ぎていました。
そして、ここから遂にПрипять(プリピャチ)へと向かいます。
チェルノブイリ原発で働く技術者の為だけに造られた
文字通りの原子力村。
嘗ては地図にも載らぬ閉鎖都市ながらも
原発関係者で大いに賑わっていましたが、
現在では無人地帯と化し、郵便番号も抹消されています。
跨線橋。
原発事故が起きた事はПрипятьの住民には
かなり後になるまで伝えられませんでしたが、
この跨線橋から燃え上がる原発が見えたので
何かまずい事が起きたという認識は
割と早くからあったそうです。
ここからがПрипятьの中心街です。
検問所を抜けて中には入ります。
バスの転回所のような場所に車を停めて
徒歩でПрипятьを散策します。
湖畔のレストラン。
当時としては珍しい自動販売機などもあり
夏場などは大いに賑わったそうですが、
今では見る影もありません。
優秀な科学者や技術者が集められたПрипятьは、
レストランに限らずあらゆるものに
当時の最新技術や意匠が用いられており、
正に未来都市の様相を呈していたそうです。
ソ連あるあるの集合住宅も
一般的なものに比べて何処となくお洒落。
現代日本に持っていっても通用しそうです。
こちらは劇場。
その性質上閉鎖都市ではありましたが、
その分街の外に出なくても満足出来るよう
娯楽施設も充実していました。
劇場の外壁には奇抜な彫刻が。
ソ連ってこういうのはバロック様式とかを
好んで使うイメージだったけど。
森の中を歩きます。
勿論、元から森だったのではなく
放棄された後に木が生えて森になったものです。
放射能マークが付けられた複合施設。
放射能汚染を表している訳ではなく、
原子力政策によって造られた事を表しています。
複合施設の隣にあるのは街で唯一のホテル、
Готель Полісся(ホテル・ポリーシャ)。
閉鎖都市なのにホテル?と思うかも知れませんが、
チェルノブイリ原発はソ連の目玉政策でもあった為
共産党の視察団がやってくる事もあり、
そういったゲストに備えて造られていました。
原発事故の際にはここで対策会議が開かれたそうです。
無人地帯と化した街にはシカが闊歩していました。
クマが出たりしたら嫌だな…
お次はЭнергетик
(電力工学)と名付けられた施設です。
中身はスーパーマーケット。
ソ連の商店というと独特の注文形式
(陳列棚で商品の値段を確認し、
別の窓口で料金を支払って領収書を受け取り、
再び陳列棚に戻って領収書と引き換えに商品を貰う。)
が有名ですが、ここは日本と殆ど変わりがありません。
物品も優先的に回されていたのでしょうか。
こちらは学校。
舞台でしょうか、薄暗くかなり大きな空間です。
“УЧИТЬСЯ, УЧИТЬСЯ, УЧИТЬСЯ!”
(勉強、勉強、勉強!)
Ленин(レーニン)同志の有難いお言葉ポスター。
学習塾とかに売れそう。
お次はちょっと有名なスポット。
Припятьに住む子供達の為に造られた遊園地です。
このゴーカートが草に埋もれた写真を
何処かで見た事のある人も居るのではないでしょうか。
放射能マークの立てられた観覧車。
子供向けの施設が廃墟化しているのは
普通の施設にも増して世紀末感があります。
雪が積もっているので音もありません。
こちらはスタジアム。
立派な陸上トラックやサッカーコートがあったそうですが、
現在では雑木林と化していて良く分かりません。
ただ、亜寒帯だからか32年という年月が経っている割には
生えている木の量が少ない気もします。
Припятьの街を一周したので帰ります。
原発事故の処理にあたった
Ликвидатор(リクビダートル)と呼ばれる人々を讃える碑。
十分な防護装備も知識も無いまま特攻させられ、
多くの人が放射線障害を患いました。
急性放射線障害により
頭痛を訴える人の像もあります。
勇ましい像しか造らないソ連にしては珍しい。
それくらい被害が甚大だったという事でしょうか。
それとも、ウクライナ製なのかな?
今回僕等が参加したのは日帰りツアーでしたが、
実は1泊以上でじっくり放射線を浴びるツアーもあります。
その場合はここに泊まるのだとか。
流石にГотель Поліссяには泊まれないんですね。
Дитяткиの番犬にお別れを告げて
Київへと戻ります。
色々と考えさせられるツアーだった。
夕食はКиївで評判の良いレストランへ。
やはり本場のБорщ(ボルシチ)は美味しい!
そして、ウクライナと言えばこれも忘れてはいけない、
Котлета по-київськи(キエフ風カツレツ)です!
マンガ肉みたいな見た目なんだな…
香ばしい衣に包まれた鶏胸肉の中から
融けたバターが溢れ出して、
胸肉とは思えないジューシーさを演出しています。
こんな良さげなレストランで
思いっきり食べて飲んでも
1人あたり2,000円くらいというウクライナは最高。
暗い歴史もありますが、
それを補って余りある良い国ですね。
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