今日はFRと名古屋学院大学へ、浜矩子の講演
「グローバル・リスクの諸相と日本経済」を
聴きに行きました。
え?何故全く正反対の思想の講演を聴くのかって?
実はFRに無理矢理参加させられました。
批判するにはまず知ってから、ですよ。
論点は一言で言うと、アベノミクスの批判でした。
アベノミクスの事をアホノミクスとか言って
揶揄していました。
うーん、馬鹿と言う方が馬鹿、ではないけど、
そういう揶揄は自らの程度の低さを露呈しているような…
まぁ、それは良いや。
一番引っ掛かったのは円安誘導に対する批判。
まず、「企業の生産拠点の国際化が進んだ今となっては
円安による恩恵は高が知れている」という主張。
トヨタとか実際に業績を上方修正してるじゃん…
というのは置くにしても、これは話の順番が逆でしょう。
そもそも、何故生産拠点の国際化が進んだかと言えば、
一つには対米貿易摩擦の軽減があり、
そして、更に大きな原因として
プラザ合意に伴う円高がある訳です。
円高の状況下で円高による被害を最小限に抑えるべく、
企業は生産拠点の国際化を進めた訳ですから、
その裏返しとして円安の恩恵が薄れるのは当然です。
円安の意義というのは輸出産業の業績改善だけでなく、
産業の空洞化に歯止めをかける事にもあると思います。
というか、今の状況は本当に「円安」でしょうか?
確かに、1ドル70円台だった去年に比べれば
遥かに円安と言えるかも知れませんが、
10年前は1ドル120円台が当たり前だった訳です。
10年前に比べて著しく日本経済が強くなったとは
残念ながら思えませんから、
1ドル110円くらいの水準なら妥当でしょう。
次に、「日本が通貨戦争を引き起こす」という主張。
通貨戦争というのは
何も日本だけが引き起こすものではありません。
日本が為替操作をしなかったところで
世界はそんな事お構い無しですから、
アメリカなんかは形振り構わず仕掛けてくるでしょう。
となると、日本だけがその被害を被ってしまいます。
憲法9条ではありませんが、
自己防衛は認めるべきではないでしょうか。
と、この意見に対する反論になるのでしょうが、
解決策(?)として「君富論」なるものを提示していました。
詰まるところ、利他主義の事らしいです。
全ての国が自国よりも他国の利益を優先するという。
夢を見過ぎだろう…
人間はそんな高尚な生き物じゃないぞ…
自分よりも母国の利益を優先するというレベルでさえ、
数多の社会主義国がその不可能性を証明したのに…
「歴史に学べ」とも言っていましたが、
何故「人は必ず裏切る」という
最も基礎的な事を歴史から学んでいないのでしょうか。
しかしながら、夢を追い求めるのは素晴らしい事です。
という事で、浜氏には是非その君富論の実践として
安倍首相の為に私財を投げ打って頂きたい。
それが出来たら、君富論は可能だと認めましょう。
今日学んだ事。
話し方が上手いからといって、
話が素晴らしいという事にはならない。
レクチャーやディベートの仕方なんかを学ぶ以前に、
論理的に自分の意見を構築する能力をこそ学ぶべきですね。
彼女なりの論理はあるのかも知れませんが。
文系教科って、理系教科と違って
何処まで行っても議論が平行線なんだよな…
それが文系教科の醍醐味なのでしょうが。
コメント
ううううう(泣)
うううううう(泣)
なんかごめん(泣)
もっと頭良くなって
出直してきます(泣)
ほんとすいません(泣)
議論が平行線になるのがいいなんて言って甘えてる文系学問なんかごめんだ。(歴史とかは別だろうけど)
論理的な議論ができていないのを誤魔化してるだけ。
>>kuni
歴史以外の文系教科って、哲学、文学、経済学、地理学、心理学、法学、商学…
どれも結論が出るとは思えないのだが…
文系は英語で“the humanities”であるように、人間が人間について考える学問だから、結論が出ないのはある意味当然だと思う。
理系なら自然という最強の証人がどの考え方(理論)が正しいのか完璧に白黒付けてくれるが、人間にはそんな芸当は不可能だからな。
>>皐月
何かそんなにまずい事を書いてたか?
Unknown
理系文系限らず、あらゆる学問に完全はないのではないでしょうか。それでいて完全を目指すところに、人間としての価値があるのだと私は思います。
あなたなら恐らくご存知でしょうが、ゲーデルの不完全性定理というものがあります。ある公理系によって導かれた命題の真偽はその公理系の中でしか議論できないという定理です。つまり人間は自然現象を根底から掌握することができないのです。理系科目も例外ではないのでしょう。
完全な解は決して出ないという現実を認識しながら理想を追い求めることが、学問を探求する身にとって必要なことだと思います。
長文な上に偉そうで失礼しました。
確かに。それについては同感です。
理系教科は1つ謎が解ければ100個以上の新たな謎が生まれる訳ですし、結局のところ(特に物理の)理論は自然に限りなく近付きはしながらも、決して一致しない近似でしかない。
科学はあくまで不完全を前提としたものなのだという謙虚な姿勢は研究者に必須だと思います。
ただ、僕が言いたかったのは、「完全に真か否か」ではなく「大多数の者が納得出来るくらい妥当か否か」であれば、理系教科は自然を相手にした「実験」でその妥当性を検証出来るのに対し、文系教科はそれが極めて困難だという事です。
数式によって現された理論は、量子力学に於けるコペンハーゲン解釈やエヴェレット解釈の様に解釈こそ多様化するかも知れないにしても、その理論の妥当性、この例で言うなら量子力学は古典力学よりも(微視的な領域に於いて)より優れた近似であるという事は、様々な実験によって万人が納得している訳です。
しかし、理論よりも解釈に重きが置かれる文系教科では、どの理論がより妥当であるかという事を判定するのは、歴史という「実験」を経ても殆ど不可能です。例えば、ソ連を始めとする社会主義国家の多くが資本主義に移行したからといって、資本主義は社会主義よりも妥当である、とは納得しない人は沢山居るでしょう。資本主義者、社会主義者の双方に言い分があり、それなりの妥当性がある。だからこそ、議論は平行線になる。
文理関わらず、学問とは根本的に不完全なものですが、理系教科は淘汰を本質とし、文系教科は多様性を本質としているのではないかと。
まぁ、学問に文理の別を付けるのは馬鹿らしい事ですが。
…すみません、長くなり過ぎました。
もっと論理的かつ簡潔な文章を書けるよう努力します。