この記事はお気持ち表明みたいになってしまったので、
そういうのが嫌いな人はブラウザバックして頂けると…
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ブラウザバックの為の余白3
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自分にとって旅行は趣味、即ち生きる意味で、
一般平均よりも大幅に高い頻度で旅行に行っている自覚がありますし、
それを矜持としてアイデンティティを保っています。
先日、そんな旅行の趣味に対して
「常識に照らし合わせると旅行に行き過ぎであり、
先立つ物を貯める為にも大幅に頻度を減らすべきだ」
という趣旨の苦言を呈される機会がありました。
無下に一蹴する訳にもいかない状況だったので
「では、具体的にどの水準まで抑えたら行き過ぎではなくなるのか?
幾ら貯金が出来るのなら許容範囲だと言えるのか?」
と問うたところ、
「それは時と場合によるもので一概には決められない」
という国会答弁みたいなまるで的を射ない回答が。
例えば、環境対策についての議論で
政府「常識的考えて環境に悪いのは駄目だから、
ガソリンや電気の使用量は減らしてね!
使い過ぎたら罰するよ」
国民「どれくらい減らせば良いの?」
政府「それは時と場合によるんだし一概には決められないよ」
って言われて納得するのか?って話ですよ。
何故被抑圧者側に判断の負担を強いるのかという。
恣意的な運用をする気しか感じられなくて不信感が募るはずです。
こういうことを言うと、
「お前アスペか?人間社会はルールだけで規定出来る単純なものじゃないから
人情の機微に合わせて柔軟に対応するものだろ」
みたいな反応が来るのですが、ここからが本題の提起です。
かっちりしたルールに従って動こうとする者は
曖昧な不文律の下で動くように矯正されるべきなのでしょうか?
言い方を変えると、
「柔軟な運用」は厳格なルールベースの運用に比べて本当に優れているのか?
…と、ここから議論を展開しようとしたのですが、
少し試してはみたもののブログという形式では限界があり、
自分の考えを整理するには至らなかったので断念しました。
この蟠りを論述に昇華させて
いずれ然るべき媒体で書き出したいと思います。


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