西表旅行 第2日目(書きかけ)


7:00、起床。
西の外れなので日の出は遅いです。
「陸路では」最奥部の白浜集落ですが、
陸路に限らなければ更に奥が存在するのが西表島。


9年前の日記
「西表島もトレッキングとか船でしか行けない集落とか
色々気になるものはあるけどな…」
と書いていたのを覚えている方がみえたら
嬉しいを通り越して怖さが倍くらい勝りますが、
そうです、西表島には船でしか行けない集落があるのです。
それこそが今回西表島を選んだ最大の理由です。


白浜港から8:45発船浮海運船浮丸に乗船。
ただでさえ二次離島本土から直接アクセス出来る一次離島(この場合は石垣島)からしか
到達することの出来ない離島。
である西表島の陸路最奥部から
更に船に乗らねばならないという、事実上の三次離島です。


内離島に遮られて目指す集落は白浜集落から見えません。
今では完全に無人島の内離島ですが、
嘗ては西表炭坑という炭鉱が稼働していました。
沖縄県に炭鉱があったんだ…
調べてみた限り沖縄県唯一の炭鉱だったようです。


白浜港の待合所には西表炭坑についての展示がありました。
西表炭坑の炭層は薄く、
中腰姿勢すら許されない狭い坑道で横になりながら掘る
「タヌキ掘り」というキツい体勢を強いられ、
落盤事故の多発、マラリアの蔓延、
離島故に脱走も困難という劣悪極まりない環境だったそうです。


内離島の頂に立つ特徴的なリュウキュウマツ。
オカルトめいた話は好みではありませんが、
闇の歴史を考えると色々と勘繰ってしまいます。


内離島を回り込んで目指す集落が見えてきました。


集落に近付いていくと…
おや?何だあの人工的な穴は。
集落の東の崖に明らかに人が掘ったと思しき穴が口を開けています。


8:54、船浮港に上陸。


この船浮集落こそ、秘島西表島の陸路の最奥部から
更に船に乗らなければ辿り着くことの出来ない集落です!
ただ、現在の西表島はリゾート地として有名になっているのと、
その中でも船浮は現代日本に残された秘境みたいな謳い文句で
結構知名度があったりするので、
同じ便で降りた観光客は6〜7人居ました。


僕以外の乗客は全員桟橋を出て右へと向かいましたが、
さっき見えた穴が気になるので僕は左に向かいます。
琉球真珠の事務所の前を横切ると…


謎のトンネルがありました。
位置関係的にさっき見えた穴に繋がっていそうですね。


素堀りで長方形断面のトンネル。
長方形に近い断面の物資を
数年間輸送出来ればそれで良いという事情が垣間見えます。
恐らくは炭鉱か軍事基地関連でしょう。
調べてみたところ後者が正解のようで、
船浮臨時要塞という要塞が昭和16年に建設されたそうです。


トンネルを出てからも道が続いています。
西表島の気候を考えると
80年放置されて草木に埋もれていないというのは考え難いので、
ある程度整備の手が入っているのでしょうか?


沖縄森林管理署の境界標が転がっていたので
今では林野庁が管理しているようです。


山肌には何本もトンネルが掘られています。
風が全く吹き抜けないので行き止まりと思われることと、
大量のコウモリの鳴き声が聞こえてくるので中には絶対に入りません。
嘗てはここにキャノン砲を格納していたそうです。


トンネルによって断面積が違います。
収める物が違ったのでしょう。
残念ながらミリオタではないので分かりませんが…


蛭に怯えながら暫く熱帯雨林を歩いてみましたが、
赤テープが現れたところで急に道が不明瞭になったので
遭難を恐れてここで引き返します。


集落の中心部に行ったら東郷平八郎上陸の地なる石碑がありました。
陸路基準では最果てのように見える船浮集落ですが、
海路基準では寧ろ利便性の高い立地なのでしょうか?


イリオモテヤマネコ捕獲の地なる碑もありました。
昭和50年に鶏小屋へ侵入したところを捕獲されたとか。
こういう地だからこそ昭和の末期になるまで
未発見のままだったんですね。
…と思ったら、イリオモテヤマネコの発見は昭和40年、
それも島のほぼ反対側の南風見田地区だったとか。
何故この碑を立てたんですかね…?


最果ての学校、竹富町立船浮小中学校。
かなり立派ですね。
現時点での全校生徒数は2人だとか。

To be continued.

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