ドイツ出張第3日目。
6:45、起床。
目覚ましをかけたのは7:30でしたが、
朝日で目が覚めていましました。
朝食を食べてから歩いて会場へと向かいます。
今日は主に自分が振り分けられていた
暗黒物質・天体素粒子のセッションを聞いていましたが、
モデル構築の話は殆ど無く、ほぼ検出についてでした。
何故このセッションに振り分けられたのだろう…
お昼ご飯はドイツらしくケバブピザ。
ドイツにはトルコ系移民が数多く居ます。
皿の余白を埋め尽くすポテトも狂おしいほどドイチェ。
午後のセッションが終わると自由議論ならぬ
「social activity」(社会活動)の時間です。
ゴミ拾いかデモ行進でもさせられそうな名前ですが、
要は散策の時間です。
かなり色んな選択肢を用意してくれていて、
街歩きのツアーがあったり、温泉のプランもあったり、
はたまた謎解きゲームやサバイバルゲームまで。
そんな中で僕が何を選んだかと言えば…
Misereorバス停(ミゼレオル バス停)から
18:10発SB63系統Simmerath Bushof
(ジンメラート・バスターミナル)行きに乗車。
勿論、自由行動です。
用意されたプランに乗るのは漢が廃るかと。
午後の半日くらいは散策時間なのかと思いきや
18時からたったの2時間だけだったので、
少しだけ郊外へ遊びに行く程度に留めておきます。
Aachen(アーヘン)の市街地を出ると忽ち森になります。
ドイツは牧草地ではなくて森なんですね。
18:41、Roetgenバス停(レートゲン バス停)に到着。
Roetgen(レートゲン)はベルギーに接する国境の町。
とは言え、そもそもAachen自体がベルギーに接しているのに
何故わざわざこんな田舎町に来たのか?
このRoetgenの市街地図に
Vennbahnという道のようなものが描かれています。
Vennbahn(フェン鉄道)、そうこれこそがお目当てのもの。
現在では廃線となっているのですが、
廃線跡を示す緑の点線の脇に
赤い一点鎖線が沿っています。
これはVennbahnを強調する為のものではありません。
ドイツ-ベルギーの国境線です。
Vennbahnは1882年から6年間を掛けて開通した
AachenとPrüm(プリュム)を結ぶ鉄道で、
第一次世界大戦に於いて中立国ベルギーを踏み台に
一気にフランスへと侵攻する
Schlieffen-Plan(シュリーフェン・プラン)に於ける
重要な補給路の一つとしても位置付けられていました。
しかし、ドイツ帝国は第一次世界大戦に敗北。
この地域をベルギーに割譲することになったのですが、
Vennbahnは一部区間が尚ドイツ領内を通っていました。
このような場合、回廊列車と言って
始点駅と終点駅を領有する国が
他国領を通過する中間部に於いてもそのまま運行出来たのですが、
中立だったのに攻め込まれてご立腹のベルギーは
このVennbahnの敷地も全て割譲するようドイツ帝国に要求。
その結果、このようにドイツ領内に
細長く食い込んだベルギー領が誕生したのです。
しかし、この回廊区間は1989年に廃止。
未だにベルギー領ではあり続けているものの、
シェンゲン協定により国境管理は事実上無くなり、
今ではBahnhofstraße(駅前通り)などに
その名を残すのみとなっています。
バス停のすぐ近くにBahnhof Roetgen
(レートゲン駅)という名の喫茶店がありました。
嘗てここに駅があったのでしょうか。
廃線跡はサイクリングロードになっています。
日本と同じですね。
しかし、あまりにもしっかり整備され過ぎて
鉄道遺構が全然見付けられない…
Vennbahnweg(フェン鉄道の道)から下りてみたら
鉄道遺構を発見することが出来ました。
この重厚なアーチ橋は間違いなく鉄道橋ですね。
銘板は見当たりませんでしたが。
満足してバス停に戻る途中、
何やらアメリカンなスクールバスがありました。
これは一体?
おっ、地元の人達が集まってる!
どうやら屋台のようですね。
折角なので、ここで早めの夕食と行きましょう。
フライドポテトはやはり付けて欲しいからmit Pommesで、
マヨネーズは別に要らないから、えーとwithoutは…
ロシア語でもスペイン語でもどう言えば良いかは分かるんだ…
(それぞれ“без”と“sin”。)
ドイツ語だけはどう言えば良いかが分からない…!
第二外国語のはずなのに第四、五外国語以下という
貧弱な語彙力を見せ付けてしまった所為で、
容赦無い大量のマヨネーズがぶっかけられました。
(正解は“ohne”だった。)
この後はRoetgenバス停から
19:45発66系統Aachen Bushof
(ジンメラート・バスターミナル)行きに乗って帰りました。
帰りの車内で一瞬だけ廃線跡が見えたぞ!
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