カムチャッカ旅行第3日目。
夢にまで見た最果ての地へ。
5:40、起床。
夏のロシアの朝は早い。
明るくなったものだから起きてしまいました。
こちら側に陸地があるはずだけど…
あると言われればあるような、
ただの雲の影にも見えるような…
空はこんな曇り模様ですが、海はベタ凪です。
ガイドさん曰く、晴天時は風が強いので
こういう霧の時の方が海が穏やかなんだとか。
晴天の下で景色を楽しみたいという気持ちと、
荒れ狂う北太平洋を20時間以上
耐えられるのかという思いで葛藤しますね。
7:52になると船内放送で軽快な音楽が流れ始めました。
Камчатка(カムチャッカ)では
暇だと取り敢えず音楽をかけるのでしょうか。
折角ロシアなんだからЛяпунов
(リャプノフ)とか流して欲しい。
8:44に朝食の時間を告げる放送がありました。
船室に掲示されていたあの時刻は
ペトロパブロフスク=カムチャツキー時間だったようです。
食堂に行ってみると既に多くの人で賑わっています。
無料の朝食は豆腐のような卵焼きと
牛乳風味の甘いお粥(Каша、カーシャ)。
それに食パンが置かれています。
野菜要素が卓上に置かれたケチャップしかない…
脚気になりそう。
食堂にはこんなポスターが貼られていました。
現在Путин大統領(プーチン大統領)は北方領土も含めた
Сахалинская область(サハリン州)への
投資を加速させているのだとか。
北方領土を返還する気は皆無ですね。
朝食を終えて再び甲板に出てみると
Камчаткаの東海岸が見えていました。
人工物など一切無い人跡未踏の地です。
ちょっと下北半島を彷彿とさせる…ような。
9:58に
「今からバーで映画をやるぞ」
という放送が流れたので、
気になって行ってみました。
10:00からと19:00からの1日2回やるようです。
始まった映画はその名もТ-34。
Комсомольская Площадь
(コムソモーリスカヤ広場)にあったあの戦車じゃないか!
Курильские Острова(千島列島)を目指す
日本人に対して独ソ戦の映画を見せるセンスよ。
日ソ戦でないだけ配慮しているんだろうか。
というか、ロシアって未だにこんな
プロパガンダ映画みたいなの作っているんですね。
僕の他に1人だけ観客が居たのですが、
彼は開始15分くらいで帰ってしまったので、
この船で唯一ロシア語の分からない僕だけが
映画を見続けていました。
何かの戦いで捕虜になったТ-34乗りが、
ナチスのプロパガンダ映画撮影の為に
収容所に運び込まれたТ-34の修理を命じられ、
その際にこっそり弾薬も運び入れて脱走を図る、
みたいな映画でした。
12:38から昼食。
100рのスープはジャガイモのスープ、
150рのメインはスパゲティでした。
どのタイミングで料金を払うのか、
どうやって集計しているのか謎でしたが。
昼食後に甲板に出てみると
白い火山性の断崖と小さな島が見えていました。
Острово Уташуд(ウタシュッド島)のようです。
全行程の5分の3と言ったところでしょうか。
更に4時間ほど昼寝をすると
いつの間にか目の前に陸地が迫っているではありませんか。
これはКамчаткаの先端Мыс Лопатка(ロパトカ岬)?
いや、沖合いに見える3つの小さな島…
これを考慮するに…
これはОстрово Шумшу(占守島)か!
Курильские Островаの最北東端、
太平洋戦争の最後に日本軍とソ連軍が
血を血で洗う大激戦を繰り広げた地です。
漁船が座礁していますね。
ガイドさん曰く、故障した漁船を故意に座礁させて
スクラップにする最中なんだとか。
そして!
このОстрово Шумшуの向かいにあるこの島こそ!
夢にまで見たОстрово Парамушир(幌筵島)です!
現在のКурильские Островаに於いて、
北方領土以外で唯一民間人が定住している島。
その唯一の集落Северо-Курильск
(セベロクリリスク)は、
山岳部に所属したことのある人なら
耳にしたことがあるのではないでしょうか。
「…セベロクリリスク、東北東、風力1、霧雨、12hPa、9度…」
気象通報で現れるあの謎の場所が
このСеверо-Курильскなのです。
日本時代は「柏原」と呼ばれていました。
18:08から夕食。
早く上陸させて欲しい…
Северо-Курильскの港は水深が浅く、
このГипанис号(ギパニス号)は
満潮時以外入港できないので、
ここでまさかの2時間待ちです。
ここまで来てお預けは辛いぜ…
出港が丁度「半日」遅れたのもこれが理由でしょうか。
近くにはГипанис号よりも
ずっと大きな漁船が碇泊しています。
この大きさじゃ満潮になっても入港できないのでは?
と思ったら港から艀がやってきて…
船員を運んでいました。
未だに艀が現役なんですね。
僕も乗せて欲しい。
待ち時間が長いからか船員達は釣りを始めました。
ものの10分で8匹釣り上げていました。
Курильские Островаは海産物の宝庫です。
20:12、遂に港に向けて動き出しました!
じれったいくらいゆっくりと
しかし着実に近付いています。
港にある船の半分以上は朽ち果てています。
着岸したら操舵室の後方にある国境警備隊の部屋に行き、
入域許可証とパスポートの確認を受けます。
(以降、サハリン時間UTC+11.0h)
20:22、Острово Парамуширに上陸しました!
感動も一入です。
しかし、いつまでも感動に浸っている暇はありません。
Гипанис号が停泊していられるのは満潮時の2時間。
本来は次の満潮まで待って
14時間後に出港するのですが、
今日は半日遅延した所為で
2時間後にもう出港するというのです。
現地ガイドさんと合流して
急ぎ足で泥濘んだ港を歩きます。
堤防の端っこにあった基石。
これだけが殆ど唯一と言っても良い
日本時代の痕跡を残す遺物だそうです。
辺りはカモメの天国になっています。
冬には日本にもやって来るカモメ達は
夏にはこんな場所にいたんですね。
港のすぐ側に聳える岬。
頂上には軍事施設があるそうで、
「あんまりカメラを向けると捕まるぞ」
と脅されました。
現地ガイドさんの用意した車に乗り込んで
未舗装の泥道を走ります。
徒歩で移動している人も多いですね。
遠浅になっている船の墓場。
水を含んだ粒の細かい砂浜は
足を取られそうになるので歩きにくいです。
船の墓場から集落方面を見た図。
Острово Парамуширの港は一つだけで、
ほぼ全ての物資と人がそこを介して外界と繋がっているのに
何故集落が港からこんなにも離れているのでしょう。
実は、嘗ては丁度この位置に集落があったのですが、
1952年11月5日にマグニチュード8.2の大地震が起こり、
襲来した10mを超す大津波によって消滅。
ソ連によって造られた建物は全て流され、
たった一つ残ったのが、上の写真の左中央に写っている
慰霊碑の土台となった
日本時代の建物の基礎部分だったとか。
この大津波がきっかけとなって
集落は丸ごと内陸部へと移転されました。
向こうに見える高台には
旧・帝国陸軍の飛行場があったそうです。
現在は使用されていませんが、
Острово Шумшуにある旧・帝国海軍の片岡飛行場は
今でも現役で使用されているとか。
それでは、いよいよСеверо-Курильскに向かいます!
到達の証拠に標識の前で記念撮影。
Петропавловск-Камчатский
(ペトロパブロフスク=カムチャッキー)から
一緒に来たガイドさんも記念撮影していました。
Камчаткаの人にとっても
そうそう来られる場所ではないんですね。
津波はロシア語でも”цунами”(ツナミ)。
この看板はцунамиопасная зона、
即ち「津波危険地帯」を示しています。
“ПРИ ЗЕМЛЕТРЯСЕНИИ
БЕГИ НА ВОЗВЫШЕННОСТИ!!!”
(地震の時は丘の上へ逃げろ!!!)
と迫真の注意書きも添えられています。
こちらがцунамибезопасная зона
(津波安全地帯)。
1952年の大津波でも浸水しなかった地域です。
現在のСеверо-Курильскがあるのは
勿論цунамибезопасная зонаです。
街灯が殆どありませんね。
Северо-Курильск唯一の(?)商店。
意外にも8時から22時までの長時間営業です。
コンビニ並みですね。
商店の中はこんな感じ。
離島の性質上、生鮮食料品は少ないですが
パンやお菓子などは中々の品揃えです。
お土産が何か売っていないか探してみましたが、
旅行者の少ないСеверо-Курильск、
ご当地の物と言ったら地元の漁師向けの
新聞くらいしかありませんでした。
戦勝記念碑…
ではなく、1952年の大津波の慰霊碑。
夥しい数の犠牲者の名が刻まれています。
こちらが戦勝記念碑。
ロシアの町の中心にあるこういう広場は
ほぼ間違いなくЛенинская Площадь
(レーニン広場)と名付けられ、
町一番の目抜き通りはУлица Ленина
(レーニン通り)なのが普通なのですが、
Северо-Курильскは違うそうで、
この広場はГородской Парк(町公園)、
目抜き通りはСахалинская Улица
(サハリンスカヤ通り)と呼ばれているそうです。
うおっ、火山が噴火してる!
とにかく火山だらけのКурильские Острова。
あれはЭбеко(エベコ火山)という火山だそうで、
殆ど毎日噴煙を上げているそうです。
時間があれば登ることもできるそうですが…
実は現地ガイドさんは郷土資料館の館長。
というわけで、最後は郷土資料館にお邪魔します。
Северо-Курильскの昔の写真などが
所狭しと並べられています。
1952年の大津波直後の写真。
元々何があったのかすら判別できないほど、
一切合切が流されてしまっています。
各地で観測された津波の波高。
Петропавловск-Камчатскийは内海なので
1.2mの津波で済んでいますが、
Северо-Курильскには12〜14mという
途轍もない大津波が押し寄せたとあります。
東日本大震災で大船渡市に到来した津波が
高さ16.7mだったそうなので、
如何に凄まじい津波だったかが窺えます。
また、ついさっきも噴火していましたが
Северо-Курильскは火山災害も多く、
半径300km圏内では21世紀に噴火したものだけで
実に10座もの活火山が犇めいています。
更には豪雨災害まで。
何故こんなに災害だらけの島に住み続けるのか…
と本土のロシア人達も
日本に対してそう思っているのでしょうか。
日本時代の遺物も展示されていました。
これを見ると、ここが確かに日本であった時代が
存在していたのだと偲ぶことができます。
今では果てしなく遠い存在になってしまいましたが…
いや、当時からして遠い存在だったのかな。
ソ連軍関連の展示は控えめです。
占守島の戦いでは結果こそ「ソ連側の勝利」なものの
日本軍の倍以上の損害を出している為、
あまり良い思い出ではないのでしょうか。
郷土資料館を足早に見終わって外に出たら、
もうとっぷりと日が暮れていました。
車に乗り込んで集落の端まで行ってから、
折り返して港に戻ります。
この島にも政府の投資があるらしく、
新しい学校などを造っていました。
もう少し訪れやすくなってくれると嬉しいんだけどな…
最後に、現地ガイドさんがせめてものお土産にと
町役場発行と思われるノートをくれました。
22時過ぎにГипанис号に帰着。
ギリギリでした。
本土に戻ります。
夢の大地での一時は終わりにけり。
実際に来てみて、益々好きになりました。
出来ることならもっとじっくり見たかったなぁ…
いつの日か誰でも自由に
千島列島を回れる時が来て欲しいものです。
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