今朝のarXivセミナーで、
多世界解釈の「検証」法として、
銃弾が発射されるか否かは確率論的に決まる銃を用意して
その銃をある瞬間から被験者に向け続ける事にし、
被験者は銃弾が発射されたか否かが
撃たれて即死するまで決して分からないものとすると、
多世界解釈が正しいならば、
被験者は自分が死ぬ世界を認知出来ないので、
銃口が自分に向けられた瞬間
急に銃弾が全く発射されなくなるように感じる、
言い方を変えれば、極めて小さい割合ながらも
いつまでも自分が生き長らえる世界は必ず存在するので、
被験者の意識はその世界に「避難」する事で
生き続けるように感じられる筈だ、
という手法が紹介されていました。
これって割と一般の死因について言えるのでは…
つまり、多世界解釈が本当に正しいなら、
世の中のあらゆる人が
「色んな命の危機に直面しながらも
何故か自分だけは奇跡的に助かり続けるような世界」
を感じ続けている事になる…?
いつまでも死ねないなんて無間地獄じゃないか!
ただ、これは「人は自らの死を知覚出来ない」
という大前提に基づいているので、
これさえ崩れれば普通に死ねますね。
シュレーディンガーの猫にしても、
量子論のこの手のパラドックスというのは
結局のところ人の意識や生死というものが、
量子論という訳の分からないものと比べても猶
より一層理解出来ていないという事の現れなのでしょう。
人間は宇宙よりも自分自身の方が知らないんだな…
(無題)

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