今日は建国記念の日。
右翼も左翼も挙って集会を開いたみたいです。
暇人ですねー。
古典の勉強をしていてふと思った事。
本歌取りって現代で言うコピペなのではなかろうか。
分かる人には分かってクスッと来るような。
こういう本歌取りやコピペの精神が
時代を越えて受け継がれているのには
やはりそれなりの理由があるのでしょう。
考えてみました。
筆者にとっては、自分の知識を活かせたという
達成感を得られるものとして、
読者にとっては、筆者と価値観を共有出来たという
一体感を得られるものとして、
その本歌、コピペが存在している
文化的空間に於ける一住民としての
アイデンティティを刺激するからこそ、
本歌取りやコピペは面白いものなのではないでしょうか。
だからこそ、インターネットが普及し、
自らの所属集団への帰属意識や
人とのコミュニケーションが希薄になった今、
自らのアイデンティティを再確認し、
他人との一体感を手軽に得られるコピペの有用性が
比類無きものとして重宝されるようになり、
嘗て無いコピペの氾濫が起こっているのでしょう。
インターネットの会話、
殊にTwitterやFacebookで交わされる会話の内、
一体どれほどが真にその人オリジナルのものなのか。
しかも、多くはオウム返しの類であり、
その本当の意味、由来を全く理解していない。
(震え声)や(小並感)の元ネタを知っている人は
果たしてどれほど居るのでしょうか。
知らない人はググって…どうぞ。
コピペだけでなく、RT(リツイート)など、
他者の言動をそのまま引用するだけで
何かを発信した気になっている人間の如何に多い事か。
元々文章に一捻りを加えるスパイスの存在だったコピペが、
主客転倒して文章そのものであるかの様に認識される現状。
サルトルの危惧した他有化の危機は
こんなところにも現れているのです。
…と、現代文の評論風に書いてみました。
書いているうちに論点がずれてきていますね。
あー、どうしたら現代文が出来るようになるのだろう…
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